家老8人衆

板橋五郎久助

記録によるとかなりの高齢だったが人一倍力が強く合戦の際に男子3名をなくし、この地へ落ち延びた時は一人だったとのこと。
後に南の漁村から嫁をもらい受けたと記録が残っています。
多野小十郎

かなり手先が器用で石を掘って観音を作ったり、石仏を掘ったりまた道具を作ったり壊れた船舶や家屋の修理などができたと記録が残されています。 ここへは息子と二人で逃げ延びたと記録されています。息子の名は不明です。
龍蔵寺氏家

高坂の家老と記録が残っているがその人物像に関してはわかっていない。
上田重成

かなりの豪傑で山に入ってはイノシシやシカなどを捕まえて皆に振る舞ったと記録されています。時には熊と戦い熊汁を皆に振る舞ったなどと記録が残されています。
後藤五右衛門

逃げ延びた際にかなりの傷を負ったと記録されています。ここでもその傷によってかなりの強面であったと記録が残っていますが絵は残されていません。
六角三郎常種

本公家の出身で朝の帝と精通していたようです。豊実からの信頼も厚く帝からの勅使を直接受ける事ができたようです。
不知火忠正

元々内海の海賊だったらしく、海での生活に精通していたようです。素手で魚を取ったり満干を利用して魚を追い込んだり、通商船を襲ったりは不知火の手筈で行われたと記録が残っています。
保科玄藩

勘定を司る家老で武勇にも長けていた人物のようです。村の収支や報酬の分け方などを取り仕切っていたと記録にあります。
※本作品の全てはフィクションです。