429年前の洞窟寺院とその周辺史跡のあらまし


これらの史跡郡は今から429年前の1585年に作られたものです。

丙堰の役(へいせきのえき)で惨敗した豊実(とよみ)方の将、高坂兵伍助秀熾(たかさかひょうごのすけひでおり)は生き残った配下の者を引き連れ、海を渡り、ここ現在の南海市、当時の下海造国鋸北(しもうみつくりのくにしょうほく)へ敗走してきました。

この鋸北は切り立った岩山を背にした海辺の岬であり、岩山は険しく立ち入る者は居ないので道がなく、海からしか立ち入れないという場所で、落人(おちうど)が隠れるには最適の場所だったようです。



鋸北には東に一つだけ小さな漁村(現在の鋸東町)がありましたが、兵伍助秀熾は岬の近くに新たに小屋を五軒建てて面の割れていない(顔を知られていない)配下の佐野兵庫之助(さのひょうごのすけ)、崎田勘五郎(さきたかんごろう)、清川太助(きよかわたすけ)、常田助三郎(ときだすけさぶろう)、佐々木弥九郎(ささきやくろう)とその家族を住まわせ、漁業をさせて乗ってきた船を漁船に変え敗走の痕跡を隠したそうです。



また、立ち入りにくい岩山へ街道を皆で作り、岩山の中腹に小屋を六件建てて、同じく面の割れていない配下の西村忠左衛門(にしむらちゅうざえもん)以下数名(以下数名としか記録がない)とその家族を住まわせ、石工として身を隠させたそうです。



兵伍助秀熾はこの場所に簡単な寺も建立しています。寺は兵伍助秀熾が丙堰の役の前に自分の菩提寺を開こうと、帝(みかど)に勅旨を賜っていたため、この勅旨を根拠に建立したもので、簡素ながら良い出来だったと記録されています。

寺にはやはり面の割れていない残りの十数名が僧として身を隠したという記録がされています。(名称不明)



兵伍助秀熾と側近の家老、板橋五郎久助(いたばしごろうひさすけ)と多野小十郎(たのこじゅうろう)、龍蔵寺氏家(りゅうぞうじうじいえ)、上田重成(うえだしげなり)、後藤五右衛門(ごとうごうえもん)、六角三郎常種(ろっかくさぶろうつねたね)、不知火忠正(しらぬいただまさ)、保科玄藩(ほしなげんぱん)の知られている九人は、暫く村の寺の中に留まって、山頂までの街道を整備し、山頂近くの岩壁を削り、石を切り出し深い洞窟を空け、奥の岩壁に石仏を彫り、その石仏の結んだ手と組んだ足の間に隠し通路を彫り、更に石仏の裏に窟を広げ隠し窟を作り続けたとされています。



やがて、佐野等の漁村にも、西村等の石工の村にも寺にも追っ手が迫ったようですが、神社仏閣には特別な許可がないと入れずまた、村の寺には帝の勅旨もある為に、手荒な真似もできないため、兵伍助秀熾等は数ヶ月間見付からずに過ごせたと記録されています。

やがて敗走から半年後、洞窟と隠された窟が出来上がり、寺を洞窟内へ移して兵伍助秀熾らは隠し窟の中へ移ったようです。

兵伍助秀熾は商才もあったようで、洞窟を掘る際に出た大量の石は村に運んで石材に加工し、大きさを揃えて岬近くの佐野等の住む村から建材として近くの村や町で売って金銀へ変えたというエピソードもあります。



また、山頂付近の洞窟からは船の往来が見え、追っ手が来る事もすぐ解り、普段は石工の村で生活していた兵伍助秀熾らは、追っ手が来ると洞窟奥の隠し窟へ隠れたそうです。

洞窟からは敵将の南城方へ行く商船が見え、煮え湯を飲まされるような思いで眺めていたと記録にあるように、敵方の繁栄に苛立つ兵伍助秀熾だったようですが、やがて家老ら重臣と協議し、敵方の商船を襲う事に決めたそうです。

兵伍助秀熾らは佐野等の漁村の奥の岬の地形を生かして引き潮でしか顔を出さない海の中の洞窟を見つけ、この中に小船と武器を隠しました。

やがて洞窟から敵方へ向かう敵方の旗印を挙げた商船が見えると洞窟から小船を出し、商船を襲いました。

この海域に海賊が出るようになってからは頻繁に南城方の追っ手が村に来たようですが、やはり落武者の痕跡も海賊の痕跡も見付からなかったとされています。

ある時に南城方の将、坂田半左衛門という者が洞窟寺院が怪しいと、帝の勅旨を盾に捜索を拒む僧を押しのけて洞窟内を捜索したようですが、結局何も見付からずに、帝の勅旨を汚した罪で切腹させられたとされています。

兵伍助秀熾は人として人気があった人物のようで、彼とは関係のない南の漁村の者たちも「頭」と呼び、親しんでいたようです。
兵伍助秀熾は分け隔てなく敵方から奪った足のつかない物は南の漁村の者たちへも分け与えていたと言われています。

兵伍助秀熾らはその後に突然歴史上から姿を消し、洞窟の事も寺院の事も一切が長い間忘れ去られてしまっていました。

しかしながら明治47年の「あの事件」より洞窟寺院とその周辺史跡が発見され、現在は発見された全てが史跡として公開展示されています。


※本作品の全てはフィクションです。